名古屋地方裁判所 昭和28年(わ)2021号 判決 1959年3月05日
被告人 岡田金作
明二九・一〇・一六生 無職
主文
被告人を懲役六月及び罰金五千円に処する。
未決勾留日数中五十日を、内二十五日を右懲役刑に算入し、内二十五日を一日金二百円に折算して右罰金刑に算入する。
但し、右懲役刑については、本裁判確定の日から二年間その執行を猶予する。
押収してある日本刀二振(証第一号及び第二号)は、いずれもこれを没収する。
訴訟費用中、証人石川清助(昭和二十八年八月七日出頭分)、同中埜作平、同磯村豊(昭和二十七年四月二十四日及び昭和二十八年五月六日各出頭分)、同重野重一、同加藤三郎、同大久保親、同戸田芳信(上記の三名いずれも同年四月八日各出頭分)、同新美享及び同佐藤隆治に各支給した分は、被告人の負担とする。
被告人が、(一)愛知県知多郡武豊町字高野前百四十一番地石川清助方において、同人を欺罔して、(1)昭和十九年六月中旬ころ紫檀の机一脚を騙取し、(2)同年七月上旬ころ国防色洋服生地三着分を騙取し、及び(3)同年七月中旬ころ霜降洋服生地二着分を騙取したとの各点、並びに(二)昭和二十五年四月二十五日国家地方警察愛知県本部刑事部捜査課において、同捜査課勤務の司法警察員市川市雄に対し、岡田たき及び戸田芳信をして刑事上の処分を受けさせる目的で、虚偽の事実を申告して誣告したとの点につき、被告人はいずれも無罪。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、
第一、(1) 昭和十九年二月中旬ころ愛知県知多郡武豊町字高野前百四十一番地味噌溜販売業石川清助方において、同人に対し、豊橋の製糸工場から蚊帳、金庫などを買い受けて、同地の住友金属へ売却する事実がないのに、「豊橋の製糸工場で蚊帳と金庫を売りに出している。全部で一万一千円で買えるが、買わないか。」と虚言を弄し、その翌日ころ、「昨日話した蚊帳と金庫は、豊橋の住友金属へ一万八千円位に売れるが、運賃もかからんし、もうかるから金を出してくれ。その資金に一万一千百円要るのだが、さしあたり買付の契約金に千円要るから貸してくれ。もうけの半分は謝礼する。」旨虚構の事実を申し向け、よつて、同人をしてその旨誤信させ、借用金名下に現金一千円を交付させて、これを騙取し、更に、
(2) 同年三月初旬ころ同人方において、同人に対し、「明日製糸工場から先の蚊帳と金庫を受け取つて、住友金属の方へ納めるから、一万円用意しておいてくれ。」と虚言を弄しよつて、同人をしてその旨誤信させ、その翌日の朝右金員を交付することを約定させたが、同日被告人が同人より同行を求められてこれを拒否したことより、同人が右現金の交付を拒んだため、金員騙取の目的を遂げず、
第二、法定の除外事由がないにもかかわらず、昭和二十一年六月十五日より昭和二十四年三月二十四日ころまでの間、同県知多郡富貴村大字東大高字中瀬郷四番地重野重一に、日本刀二振(刃渡り約六十八糎及び六十七糎五粍、証第一号及び第二号)を預けて、同人方押入内にこれを隠匿所持し、
第三、昭和二十五年四月二十七日午後零時四十分ころ、同県半田市所在の国家地方警察同県知多地区警察署刑事室において、昼食中の同署勤務の司法警察員巡査部長加藤三郎に対し、同僚の警察官並びに外来者ら四、五名のいる面前で、「お前のようなやつが、ようまだ警察で飯が食えるなあ。放火犯人のようなやつをかばつて、おれのように何もしない者を留置場に入れ、ひどい目にあわせやがつたな。お前のようなやつは警察をやめてしまえ。」などと申し向けて罵倒し、もつて公然事実を摘示して同人の名誉を毀損したものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
判示所為中、第一の(1)詐欺の点は、刑法第二百四十六条第一項に、同(2)の詐欺未遂の点は、同法第二百五十条、第二百四十六条第一項に、第二の刀剣不法所持の点は、銃砲刀剣類等所持取締法(昭和三十三年法律第六号)附則第九項、(銃砲刀剣類等所持取締令(昭和二十五年政令第三百三十四号)附則第三項、)銃砲等所持禁止令(昭和二十一年勅令第三百号)第二条、第一条、罰金等臨時措置法第二条第一項に、第三の名誉毀損の点は、刑法第二百三十条第一項、罰金等臨時措置法第三条第一項第一号、第二条第一項にそれぞれ該当するが、第二及び第三の各罪につき、各所定刑中いずれも罰金刑を選択し、以上は刑法第四十五条前段の併合罪であるから、第一の(1)及び(2)の各罪につき、同法第四十七条、第十条により、犯情が重いと認める(1)の罪の刑に法定の併合加重をなした刑期範囲内、第二及び第三の各罪につき、同法第四十八条により、各所定罰金の合算額範囲内において、被告人を懲役六月及び罰金五千円に処することとし、同法第二十一条により、未決勾留日数中五十日を、内二十五日を右懲役刑に算入し、内二十五日を一日金二百円に折算して右罰金刑に算入し、右懲役刑の執行は、諸般の情状を考え、同法第二十五条(昭和二十八年法律第百九十五号による改正前)により、二年間これを猶予することとし、押収してある日本刀二振(証第一号及び第二号)は、判示第二の犯罪行為を組成したものであり、被告人以外の者に属しないものであるから、同法第十九条第一項第一号、第二項によりいずれもこれを没収し、訴訟費用中、証人石川清助(昭和二十八年八月七日出頭分)、同中埜作平、同磯村豊(昭和二十七年四月二十四日及び昭和二十八年五月六日各出頭分)、同重野重一、同加藤三郎、同大久保親、同戸田芳信(上記の三名いずれも同年四月八日各出頭分)、同新美享及び同佐藤隆治に各支給した分は刑事訴訟法第百八十一条第一項本文により、被告人にこれを負担させることとする。
(無罪の部分)
(一) 本件公訴事実中、被告人が、愛知県知多郡武豊町字高野前百四十一番地味噌溜販売業石川清助方において、同人に対し、
(1) 昭和十九年六月中旬ころ、即日売却代金を持参する意思がないのに、「紫檀の机が欲しいという人があるから、千五百円で売つてやる。今晩五時までには机の代金を持つて来る。」旨虚構の事実を申し向け、よつて、同人をしてその旨誤信させ売却斡旋名下に紫檀の机一脚を交付させて、これを騙取し、
(2) 同年七月上旬ころ、代金支払の意思及び能力がないのに、「洋服生地を三着分二千百円でわけてくれ。代金は二、三日中に必ず持つて来る。」旨虚構の事実を申し向け、よつて、同人をしてその旨誤信させ、売却名下に国防色洋服生地三着分を交付させて、これを騙取し、
(3) 同年七月中旬ころ、前同様代金支払の意思及び能力がないのに、「前にわけてもらつた洋服生地の代金は、今晩必ず持つて来る。百姓で洋服生地の欲しい人があるから、もう二着分わけてくれ。値段は前のと同じに二着分で千四百円で頼む。この代金はすぐに持つて来る。」旨虚構の事実を申し向け、よつて、同人をしてその旨誤信させ、売却名下に霜降洋服生地二着分を交付させて、これを騙取し
たとの点について、考察するのに、
証人石川清助の供述(第十四回公判調書)によれば、被告人が石川清助から右公訴事実記載の各物品の交付を受けたことを認めうる。しかしながら、右証人の供述、被告人の供述(第四回公判調書)被告人の司法警察員に対する昭和二十五年五月十二日附供述調書並びに証第二十号及び第二十二号の各取引控によれば、被告人は昭和十九年ころから、しばしば石川清助方に出入りし、その間数多く同人と洋服生地類の取引をしており、右公訴事実記載の各事実は、右取引継続中の事実であつて、そのうちには、相当多くの決済分もあることが認められるので、被告人が前記各物品の交付を受けた当時、果して被告人に石川清助を欺罔してこれらの物品を騙取する意思があつたかどうかは疑わしく、結局、右各詐欺の点は、いずれも犯罪の証明がないことに帰する。
(二) 本件公訴事実中、被告人は、妻岡田たきが情夫戸田芳信と同棲していることに憤慨し、右両名をして刑事上の処分を受けさせる目的で、昭和二十五年四月二十五日名古屋市所在の国家地方警察愛知県本部刑事部捜査課において、同捜査課勤務の司法警察員市川市雄に対し、昭和二十四年三月八日に発生した同県知多郡富貴村大字東大高字中瀬郷三十九番地右戸田芳信方納屋(同人の養母戸田よしの隠居部屋)の火事は、右岡田たきと戸田芳信との共謀の放火によるものである旨、虚構の事実をねつ造して虚偽の申告をなし、もつて、誣告したとの点について、判断するのに、
昭和二十五年三月八日午後六時三十分ごろ、右公訴事実記載の戸田芳信方納屋の道路側軒下の一部と同納屋の二階の屋根裏の一部が焼けたこと、これについて、所轄知多地区警察署の捜査の結果、右の火事は、当時同納屋の一部を自己の隠居部屋として住んでいた芳信の養母戸田よしの失火によるものとして処理されたこと、ところが、昭和二十五年四月二十五日に、被告人が、国家地方警察愛知県本部刑事部捜査課において、岡田たき及び戸田芳信の両名をして刑事上の処分を受けさせる目的で、同捜査課勤務の司法警察員市川市雄に対し、右戸田芳信方納屋の火事は、岡田たきと戸田芳信との共謀の放火によるものである旨の申告をしたこと、右申告に基き、県本部捜査課においては、地元警察署の協力のもとに、右納屋の出火事件について再捜査がなされたが、その結果、右火事はやはり戸田よしの失火によるものであつて、被告人申告のごとき放火によるものでないとされ、かえつて、被告人に対し誣告容疑の取調がなされ、ついに本件起訴となつたものであることは、本件証拠上いずれも疑のないところである。
しかしながら、被告人は、右申告の事実が虚偽であること、並びにそれが虚偽であることを知りながらこれを申告したとの点を終始極力否認し、その根拠として、昭和二十四年三月十二日ころ岡田たき自身の口から、芳信方納屋の火事は芳信が放火したものであることを聞いたこと、同月十六日ころ右たきから、同様の趣旨をしたためた手紙(証第十二号学習帳の表紙から六枚目に転写されたものと同一内容のもの)を受け取つたこと、同月二十四、五日ころ被告人の長女岡田清子から、同女が右火事の前夜戸田芳信方で芳信とたきとが納屋に火をつける相談をしているのを目撃したことや、芳信がたきに火をつけて来たと話すのを傍にいて聞いたことなどを聞知し、さらには、芳信方の近隣の者から、芳信方の火事は同人の養母よしの失火として処理されたが、本人のよしはそれが自分の失火によるものであることを否定しているということを聞知したことを挙げ、これらを理由に、芳信方納屋の火事は、同人とたきとの両名が共謀して放火したものに相違ないとし、かつ、被告人はそれを確信して申告したものに外ならないと弁解する。
そこで、被告人の右弁解の真偽について以下検討するのに、被告人の司法警察員に対する各供述調書(昭和二十五年四月二十六日附、同月二十九日附及び同年五月一日附)、証人戸田芳信及び同岡田たきの各供述(第三回公判調書)、同大岩あきゑ(第六回公判調書)、同磯村豊(第七回公判調書)及び同中埜作平(証人尋問調書)の各供述、並びに証第十八号の(一)ないし(五)(示談書及び訴訟代理人解任届書)によれば、被告人は、昭和十一年ころ岡田たきと結婚(再婚)し、同女との間に長男清司(昭和十二年八月一日生)及び長女清子(昭和十七年四月二十六日生)をもうけ昭和十九年十二月地震に被災して家を失つたころ、被告人は胃病を患つて病院に入院し、たきは、右二人の子とともに実家の兄中埜作平方に身を寄せることとなり、その以前から、被告人らは夫婦仲が悪く、喧嘩抗争が絶えなかつたため、以来長らく別居するに至り、たきは、昭和二十二年八月ころ、被告人に対し離婚訴訟を提起するまでに至つたこと、たきは、右訴訟中に近隣の戸田芳信より頼まれて同人方へ農業の手伝に行つているうち、当時妻を失つていた同人と親密になり、昭和二十三年七、八月ころから情交関係を結び、内縁の夫婦関係を続けるようになつたこと、被告人がその事実を知つて憤慨し、昭和二十四年二月十八日ころ、磯村豊の援助を得て、たきと芳信が同床中の現場を取り押さえ、翌同月十九日ころ、右磯村豊が仲に入り、右両名は、被告人に謝罪して以後情交関係を絶つことを誓約し、たきは、本意ならずも、被告人のもとに戻つて離婚訴訟も取り下げることを承諾し、芳信は被告人に慰藉料として金二万円を支払うことを応諾し、内金一万円は即日、残額は同年四月末日までに支払うということで示談が成立したこと、たきは、戸田芳信方納屋の火事の翌日の同年三月九日午後三時ころ、磯村豊に伴われて被告人のもとに一応帰つたが、三日程滞在しただけで、同月十二日午後二時ころには、早くも子供は残したままで、戸田芳信のもとに逃げて行き、その後しばらく芳信に教えられた名古屋市内の某所に身を隠したうえ、ふたたび芳信方へ行つて、以来今日まで、同人と同棲して夫婦関係を続けているものであり、被告人に対する前記離婚訴訟も、示談どおりに取下をするどころか、現在もなお抗争中であることを認めることができる。そして、以上のごとき前後の事情から考えると、芳信とたきとは、同床中の現場を取り押えられ、やむなく前記の示談をしたものの、いざその履行として、たきが芳信と別れて、被告人のもとに帰らなければならないこととなるに及んで、たがいに未練の情に堪えず、ここに窮余の策として、本件納屋の放火を企図したものではなかつたか、すなわち、同人らとしては今芳信方の納屋から不審火を出せば、自分らと被告人との現在の関係から、誰が考えても被告人の嫉妬による放火と見るにちがいなく、その結果は、被告人の逮捕、拘禁は必定で、もしそうなれば、邪魔になる被告人を相当長期間自分らの身辺から遠ざけることができるし、そのうえ、たきから提訴している離婚訴訟も、同人に有利な結果に落着して、自分たち二人は晴れて夫婦になりうるというような期待から、ついに共謀して本件納屋の放火を敢行したものではなかつたか、このような疑が客観的に存しないわけではない。してみると、被告人が右の火事をたきらの放火であると考えたことは、後に認定するところの岡田清子(被告人の長女)からの報告その他の事実の有無にかかわらず、以上の事情からだけでも、一応首肯することができるわけである。
また、戸田芳信方納屋の火事が同人の養母戸田よしの失火として処理されたことは、前記のとおりであるが、かように処理されたことには、つぎのようないきさつがあるのであつて、果してよしの失火であつたかどうかについては、本件証拠上はなはだ疑問がある。すなわち、証人戸田芳信(第三回及び第十八回各公判調書並びに証人尋問調書)、同戸田よし(第四回公判調書)、同加藤三郎(第二十二回公判調書)、同戸田佐知夫(第三十六回公判)の各供述並びに裁判所(半田支部)の検証調書によれば、右火事の真相は、戸田よしが、火事の日の夕方畑仕事を終つて納屋に帰り、納屋から十米ほど離れた井戸端で飯を炊き、納屋に入つて食事をしようとしたところ、そのとき、納屋の西の方でパチパチと異様な音が聞えたので、納屋の西窓を開けたところ、そこはすぐ道路になつていて、納屋の軒下には当時焚物用の麦わらや枯かやなどが数束、杉皮張りの納屋の外壁に接して積んであつたが、それが燃えているのを発見したので、すぐに母屋へ駈けて行つて同人の孫にあたる戸田千秋や戸田佐知夫に急を告げ、右両名とその後駈けつけた消防の人たちによつて消火してもらつた結果、麦わらなどの積んであつたところの納屋の西側の杉皮張りの外壁とその上部にあたる軒庇裏、及びその軒庇をつたつて納屋の内部に入つた火で、納屋の天井裏に上げてあつたわらや屋根裏が燃えたもので、この火事は、右のように、戸田よしには全然関係のない原因によるものであつたが、戸田芳信は、火事の直後消防団長に伴われて警察署に出頭した際、取調にあたつた巡査から、占領軍が進駐して来て以来、火事のことは、とても厳しくなつたということを聞かされたので、なんとかしてこの火事の件を簡単に済ませたいと考え、右巡査に対し、年寄(戸田よし)の粗相火として済ませてもらえないかと頼み込み、家に帰つてそのことをよしにも話し、警察の人が調べに来たら自分の粗相火であつたと述べるように頼んだので、よしもこれを承諾し、翌日現場の取調に来た警察官に対し、あの日の夕方、余り寒かつたので、納屋の土間でこんろにわらを入れてそれを燃してあたつていたところ、その火が納屋の天井裏から垂れ下つていたわらや、こんろの附近に散らかつていたわらやざるに燃え移つて、火事になつたものであるといかにも自分の不注意で火事を起したもののように申し述べたので、現場の状況と照し合わせて、警察官もこの供述を信用し、本件をよしの失火事件として記録を送庁したものであることが認められる(もつとも、よしは、昭和二十九年四月十六日の当裁判所の証拠調において、前記第四回公判調書中の供述をひるがえし、最初警察官に申し述べたところと同趣旨の証言をするに至つたのであるが、この証言は、前記証人戸田芳信、及び同戸田佐知夫の各証言、その他前記検証調書の記載に徴し、にわかに信用することができない)。してみると、本件の火事が戸田よしの失火によるものであつたと認定することは、極めて困難である。しかしながら、それだからといつて、直ちに、右の火事をもつて、被告人の主張するように、戸田芳信らの放火によるものと断定することは、もとより早計といわねばならないが、ただ、ここにはなはだ不可解に思えることは、戸田芳信が警察で取調の係官から、進駐軍が来て以来、火事のことがとても厳しくなつたということを聞くに及んで、なんとかして本件火事の件を簡単に済ませたいと考え、係官に対し、右の火事を養母よしの失火にしてもらえないかと頼んだり、よしに対しても、警察の人が調べに来たら、自分の失火であつたと述べるように頼んだりしたことである。本件の火事がよしの失火によるものでないことを知りながら、なにゆえ、芳信はこれをよしの失火にしようとしたのであろうか。よしの失火ということになると、同人に科せられる罰金は、結局自分が出さねばならぬことになるであろうことや、その罰金も、警察官の前記の話から、重い罰金がかかるであろうことは、十分に覚悟のうえであつたと思えるのであるが、それにもかかわらず、どのような必要があつて、また、どのような利益を考えて本件をわざわざよしの失火としようとしたのであろうか。また、芳信は、もしこの火事をよしの失火として処理してもらうことができれば、それで事が簡単に済むもののように考えているのであるが、何の過失もなかつた養母に失火の罪責を負わせるようなことになるのに、それがどうして芳信にとつて、事が簡単に済むことになるのであろうか。ところで、これについて考えうることは、もし本件の火事をよしの失火によるものであるようにしておかないと、他に明らかな出火原因のない火事のことゆえ、厳重な捜査が始められることは必然で、その結果は、岡田たきとの不倫な関係が明るみに出て、処罰を受けるようなことにならぬとも限らないので、それよりむしろ、本件をよしの失火として簡単に片附けてもらえれば、その罰金は自分がこれを出すにしても、その方がまだましであると考えたのではなかつたかということである。しかしながら、姦通罪は、当時すでに刑法から除かれ、姦通が不可罰行為となつていたことは、周知の事実であつたはずであるから、たきとの関係の発覚を怖れたために、本件をよしの失火としようとしたものとは、どうしても考えることができない。してみると、これは、おそらく、芳信としては、自分自身が本件火事の責任者であり、それも失火などの軽い責任ではなく、重大な放火の責任があつたので、前記のように警察で、最近火事については厳罰方針がとられるようになつたことを聞くに及んで、怖れをなし、これは、なんとしても、当時出火現場にいた養母よしの失火とでもして、簡単に事件を片附けてもらう以外に方法がないと考え、そのように取調の係官に頼み、よしにも頼んだものではなかつたかそのようにでも考えない限り、とうてい、前記の疑問は、解消するものでないように思える。
もつとも、戸田芳信は、前掲第十八回公判調書中で、火事の日は仕事先で夕食をすませ、午後六時か六時半近くに自宅に戻り、午後六時半ころ自宅を出て、被告人に渡す示談金の残りの都合がつかぬことのことわりに、河和(矢梨)の磯村豊方へ自転車で行き、岡田たきや清子にも会い、同夜九時か九時半ころに帰宅すると、留守中に納屋の火事があつて、村の人たちが大勢で火事の跡片附をしているところであつたと述べ、あたかも、同人としては全然この火事には関係がなかつたように述べているのである。しかしながら、同人が仕事先から一たん帰宅してそれより河和へ行くため自宅を出たのが、その日の午後六時半ころであつたとすると、それは、ちようど、前に認定した本件の火事の出た時刻に一致するわけであるが、そうすると、同人が家を出たことと火事との間には、何らかの関係があるようにも考えられるのであつて、これをもつて、単なる偶然の一致として看過すべきことではないように思える。ただ、この六時半ころという時刻は、それ自体相当に幅のある表現であるばかりでなく、あるいは、同人の思い違いで述べたものであるかもしれないので、この両者の時間的関係は、さらに別の証拠をもつて確定する必要がある。ところで、戸田よしの証言(第四回公判調書)によると、芳信が当日夕方、仕事先から自宅に帰つて来たとき、よしは、ちようど井戸端で夕飯を炊いていて、その附近を通つて芳信が家に入るところは、よしもこれを見て知つているのであるが、その後芳信が家を出たのはよしにおいて気が付かなかつたようである。これは、もう、そのときは、よしは飯を炊き終つて納屋に入つた後であつたからであると考えられる。ところで、よしが納屋の西窓を開けて道路に面する納屋の軒下の焚物が燃えているのを見て、はじめて本件の火事を発見したのは、同人が井戸端で飯を炊き終つてから納屋に入つて間もなくのことであつたことは、前に認定したところである。そうすると、芳信が自宅を出たのと、よしが軒下の焚物が燃え上つているのを見たのとは、それが六時半ころであつたかどうかにかかわりなく、ほとんど同じ時刻ころのことであつたことが明らかである。ところで、両者の間にかような関係があつたとすると芳信は、河和に行くために自宅を出ると、すぐ本件納屋の西側の道路に廻り、納屋の軒下に積んであつた焚物に火をつけたうえ、自転車で河和へ行つて、たきや清子に会つたのではなかつたかということが、十分に考えられるのである(そして、この認定は、後に挙げる証人岡田清子の「私が、その日母とともに磯村方へ行く前、河和の駅の近くで芳信を待つていると、そのときは、もう真暗に日が暮れていたが、芳信が自転車に乗つてやつて来たのでそれより一しよに浜へ行き、そこで、私は芳信が母に今火をつけて来たと話すのを聞いた。」という証言にも、よく符合することに注目すべきである)。してみると、芳信らの放火の嫌疑は、ますます深まるわけであるが、それと同時に、被告人に対する本件誣告の嫌疑は、これに伴つてますます薄らいで行くものであることは、もちろんである。
なお、証人岡井かる(証人尋問調書)及び同磯村豊(第七回公判調書)の各供述によると、岡田たきが一たん被告人のもとに戻つて逃げ出してから間もなくのこと、被告人の実妹大岩あきゑが磯村豊とともに、たきの行方や動静をさぐりに、戸田芳信方の近所の岡井かる方へ行つたとき、ちようど戸田よしも来て、岡井かるに対し、芳信からよくいじめられる話や納屋の火事の話をした際、「この火事は、実際にはどうして起きたのか知らぬが、私が火を焚いている間に、私の過失で火事になつたといつておいた。」という話をし、大岩あきゑらは、これを隣の部屋で聞いていたことが認められるのであつて、このよしの話は、すぐあきゑから被告人に伝えられたものと思われるのであるが、そうすると、被告人は、この話を聞いて、本件納屋の火事の原因に不審を抱き、これを芳信らの放火によるものと考えたとしても、少しも不自然なことがなく、まことにありそうなことであつたといえないことはない。
つぎに、証人岡田清子の供述(昭和二十九年四月十七日及び同年七月二十六日の両日証拠調した各証人尋問調書)によれば、同証人は、昭和二十四年三月八日の戸田芳信方納屋の火事の前の晩に、芳信が同人方で岡田たきに、「明日の晩よしの家に火をつけてやろう。火をつけたら自転車で行くから、河和の駅の近くで待つていてくれ。誰が見ても金作がつけたと思うだろう。」などと相談しているのを、隣室から立ち聞きした。翌同月八日午後四時ころ、たきに連れられて芳信方を出て、河和の駅の近くで待つていると、そのときは、もう真暗に日が暮れていたが、芳信が自転車に乗つてやつて来たので、それより一しよに浜の方へ行き、ブランコのあるところで、芳信がたきに、「今火をつけて来た。」と話しているのを聞いた。そして、同月九日たきとともに被告人のもとに戻り、同月十二日にたきが出て行つてから、被告人や大岩あきゑらに、これらのことを話したというのである。思うに、これらの証言は、本件各証拠中もつとも重大な証拠である。もしこの証言を信用することができるとすれば、本件誣告の点は、もちろん無罪となるべき関係にある。ところで、右岡田清子の供述全般(前記各証人尋問調書の外、昭和二十六年十二月一日及び昭和三十二年三月三十日各証拠調した証人尋問調書、第二十八回公判調書並びに昭和三十三年二月三日第三十五回公判廷における供述)について精査するのに、同人が自ら見聞した事実として供述するところは、幼児の世界とは全くかけ離れた大人の社会に生起した多くの事実にわたり、しかも、極めて具体的でかつ詳細であつて、小学校に上るか上らない年齢僅か七年位の幼児が自ら見聞した事実を、五年も後に裁判官の面前で供述する証言にしては、一見あまりにもその認識と判断の能力を超えたようにも思われる部分のあることは事実であつて、これらは、後日被告人らが同人に教え込んだものではなかつたかという疑がないではない。しかしながら、清子は、敗戦の前後の困難な時代に、さして裕福でもない家庭で幼児期を送り、しかも、両親の夫婦仲が悪くて紛争が絶えず、ついに別居して離婚訴訟まで提起して互に争い、その間母の手許にいたり、父の膝下に戻されたりして、定住するところなく、そのうえ、永らく母の実家や父の妹の嫁ぎ先など、いわば他人の家の厄介になり、小学校は転校するし、母は父を棄てて他の男と同棲するというような、極めて破らんの多い環境に成育したのであるから、いわゆる世故的な面では、普通の小児よりも著しく発達し、成人社会の複雑な人間関係をも相当に理解しうる程度になつていたとも考えられるのみならず、ことに、証人三輪智代の当公廷における供述によれば、被告人の家庭では、ほとんど毎日のように、前記離婚訴訟や本件に関する話をしていたため、狭い家で一しよに暮している清子のことであるから、自然とこの話が同人の耳にも入つたであろうし、清子自身も、しばしばこの話に加つていたことが認められるので、同人は、その年齢から普通に考えられる以上に、少くとも、こと本件に関する限りは、その数年前に経験した過去の事実についても、記憶を失わずに、よくこれを覚えていたものと考えられること、その他、同人の供述には、その重要部分において、自分で実際に経験したのでなければ、他から教えられただけぐらいでは、とうてい供述することができないと思われるような、極めて具象的、かつ、迫真性に富む部分が相当に数多く存するばかりでなく、その供述するところの事実は、そのほとんどすべてについて、これを裏付けるような事実が他の証拠によつて認められることなどから判断すると、清子の右供述をもつて、これを同人の直接経験しない事実を供述したものであると断定することは困難である。
ただ、右清子の証言中には、たとえば、火事の前の晩戸田芳信と岡田たきとが放火の相談をしているのを隣室で聞いたということについて、同人は、芳信がたきに「あしたの晩になつたら、僧いお婆さんの家に火をつけてやろうじやないか。誰が見ても、誰が思つても、金作が腹立ち紛れに火をつけたと思う。」と、この言葉どおりの言葉で話しているのを聞いたというような、その表現の方法からみて、大人から教えられたとしか思えないような部分がないではない。また、清子は、被告人らも協力して、その証人尋問前に供述の準備をしたこと、ことに、昭和三十二年三月三十日の証人調の直前には、書面にしたためてその準備をしたことが証拠上明らかである(証第二十七号ないし第二十九号並びに証第三十一号参照)。しかし、清子は、何分にも幼い少女であるうえに、数年前の古い出来事を、いかめしい裁判官などの前で供述するのであるから、知つていることさえも十分に述べられないのではないかという懸念が本人にも被告人にもあつたであろうし、また、その供述(内容はもとより、その態度や表現の仕方)いかんによつては、被告人としては自分自身が重刑に処せられることになるのであるし、また、清子としても、母に去られて頼みとすべきただ一人の父親が重い刑罰を受けねばならぬという重大な結果になることであり、それも、はじめて尋ねられるのと違つて、前にも同じことを尋ねられたことがあるため、そのときに述べたところと喰い違いがあつてはならないという心配もあつたであろうから、そのような配慮のもとに、証人尋問の前に、被告人においては、清子に対し、同人が前に知つていたことを忘れたりなどしていないかどうか、また裁判官の前で怖めず臆せずに証言することができるかどうかを確めてみたり、その他証言の表現方法やその態度についても、いろいろの注意を与えたとしても、また、清子において、これに応じて真剣に証言の準備をしたとしても、それは、まことに当然のことで、その証言の前に予め準備行為がなされたからといつて、ただちにこれをもつて、清子の経験しないことを証言させるため、または証言するための準備であつたと即断することはできない。まして、裁判所においては、清子の証人尋問にあつては、さような点に特別の注意を払い、重要な供述部分については、単にその供述を聞き取るに止ることなく、予め供述準備ができてなさそうな当時の模様の詳細を、つとめて微に入り細にわたつて尋問したのであつたが、同人は、ほとんどその全部を即座に、かつ正確に答えるという有様であつたから、証言前に、予め被告人らの協力による準備があつたとしても、それが実際に清子の証言に影響したところは、せいぜい、その表現の仕方ぐらいで、肝心の供述内容には不当な影響はなく、従つて、われわれの心配するところの、被告人の入れ智慧によつて、清子の経験していない内容の証言がなされたというような心証は、ついに、これを形成するに至らなかつたしだいである。
証人大岩あきゑは、第六回公判調書及び証人尋問調書中において、岡田たきが昭和二十四年三月九日、被告人のもとに戻り、そのころ同女から、戸田芳信方納屋の火事は、同人が放火したものであることを聞いたこと、また、同月十六日ころ、たきから、証第十二号学習帳の表紙から六枚目表に転写されているものと同一の趣旨を記した手紙を受け取つたこと、さらに、同月二十二日ころ、岡田清子から、同女が芳信とたきとが納屋に火をつける相談をしているのを見ていたことを聞いたこと、岡田清子が裁判官や捜査官に対して供述したことは、被告人らが教えこんでそのように供述させたものではないこと、なお、たきの右写のような手紙は、同年七月ころ、同県知多地区警察署において、同署勤務の司法警察員二井昇一に対し、右出火事件の再捜査を願い出たとき、同人に証拠物としてこれを提出し、同人は、その場で、これを刑事井島茂治に手渡していたことを各供述している。しかしながら同人は、前記のごとく被告人の実妹であるのみならず、同人は、本件の三十数回にのぼる公判期日にも、また、数回に及ぶ裁判所外の証拠調期日にも、ほとんど欠かさず被告人とともにその姿を現わし、本事件の成行については、至大の利害関係を有するものであるとともに、本件に対して熱心のあまり、夫をさえ顧みなかつたということから、夫婦の間に不和を生じ、ついに離婚訴訟となつて係争中であることが証拠上認められるほどであるので、同人の供述は、被告人のそれと、その信憑力において大差はなく、従つて、ただちにこれを信用することは、いささかちゆうちよせざるを得ない。それゆえ、ここではただ、同人の前記供述中に出ているところの、岡田たきからの手紙(証第十二号の学習帳中に記載と同一内容のもの)について、他の証拠とも対照してこれを検討することとする。
ところで、右学習帳(証第十二号)の表紙より六枚目表には、「貴女も良く知つて居る通り十二日の朝裏工場の温室の仲で私が糸を結で居る所へ金作が来て私が放火したのだと言つたから火事のことに付て話した通り戸田芳信自身が放火したので有ります。私は火事のことに付ては何事も少しも知りませんが、すんだ火事のことを毎日毎日言われては、つみになる事を思ひ出して心苦しくて居る事が出来ません放火の事に付いて細かい事が聞きたかつたら矢梨の磯村さんで聞いて来い子供二人はよろしき様にして下さい 清司、清子の移動証明書を送りました たきより 姉上様 金作へ」の記載があり、証人岡田清司は、第十六回公判調書中で、「右記載は、昭和二十四年七月十六、七日ころ被告人より命ぜられて手紙を見て写し取つたものである。」と供述している。ところで、右写のごとき手紙がもし現在存在していれば、その筆跡鑑定などによつて、果して岡田たきが真実これを大岩あきゑや被告人宛に出したかどうかを容易に判定しうるわけであるから、この手紙は本件誣告罪の成否を決する重要な証拠物件であるといわねばならない。ところが、証人岡田たきは、右写のような手紙を出したことはないとこれを否定し(第三回公判調書)、また、証人井島茂治は、二井巡査部長より何か絵図面のようなものは受け取つたことがあるが、右写のごとき手紙を受け取つた記憶がない旨供述している(第六回及び第二十一回各公判調書)。しかし、証人二井昇一の供述(第四回及び第二十一回各公判調書)によると、同証人は、右証人井島茂治との対質にもかかわらず、「昭和二十四年七月上旬ころ、知多地区警察署で、被告人から、右写のごとき内容の手紙を他の手紙や絵図面とともに受け取り、他に急用があつたため、これらを全部井島刑事に手渡して署を出た。その後間もなく、大阪の警察学校へ入校したので、右事件を手がけることができなかつた。」旨明確に供述しており、また、証人中村卯助の供述(第十一回公判調書)によると、同証人は、「自分は、被告人が警察署へ再捜査の申告をするについて口添えしてやつたが、その際、被告人から、右写のごとき手紙を見せられたことがある。」旨供述し、証第七号ないし第十一号(はがき)によると、右二井昇一は、前記戸田芳信方納屋の出火事件の再捜査に関して、被告人に対し誠意ある助力をしていることがうかがわれるのであり、なお、証第十四号、第十五号及び第二十五号(被告人の内容証明郵便控)、並びに証第二十六号(榊原城次の内容証明郵便)によれば、被告人が警察から右写のような手紙と絵図面の取り戻しに懸命の努力をしているにもかかわらず、右の手紙はいうまでもなく、受け取つて預つたという絵図面さえ、その後の行方がようとして知れないことが認められる。以上の諸事実よりすれば、右証人岡田たきの証言にもかかわらず、被告人や大岩あきゑらの受け取つたという岡田たきからの前記手紙は、当時確かに存在していたもので、被告人はこれを二井巡査部長に、同人はこれを井島刑事に順次手渡したことは確実であり、その後、右手紙は、故意か過失かは明らかでないが、行方不明となつたものであると認めるのが相当である。
以上を総合して考察するのに、戸田芳信方納屋の火事は、被告人の申告したごとく、戸田芳信と岡田たきとの両名共謀の放火に基因するものであつたことの疑が十分あるのであるから、被告人の右申告をもつて、虚偽の事実を申告したものと断定することは困難であるとともに、右申告当時、被告人において申告事実が虚偽であることを知つていたという確証もないわけであつて、結局本件誣告の点は犯罪の証明がなかつたことに帰する。
従つて、本件公訴事実中、右各詐欺並びに誣告の各点について刑事訴訟法第三百三十六条により、いずれも無罪の言渡をすることとする。
よつて、主文のとおり判決する。
(裁判官 滝川重郎 吉田誠吾 服部正明)